2011年10月30日日曜日

我が家の2011年3月11日

この経験が別な災害時に無駄にならないように、忘れないうちに記録しておきます。

その日はちょうど娘の「お食い初め(100日)」の日でした。
初めての子供ですから、親バカっぷりを発揮して、その日は朝から準備に大忙しでした。
写真館で記念写真を撮ろうかと思っていましたが、何か嫌な予感がしたので取りやめました。
今考えれば幸いでした。
夜ご飯はきちんとした儀式的な感じにしようと、私は買い物に行き、妻は家で調理の下準備をしていました。

地震の時にいたスーパー
いかにも何か上から落ちてきそうな感じですよねw
午後から出かけた私は、まず水天宮、富岡八幡、深川不動尊により、それぞれの場所で儀式用にお皿に載せる石を頂いてきました。
富岡八幡で結婚式を挙げていた方がいましたが、あの方たちはその後大変だったんでしょうね。

その後、自宅から程近い豊洲にあるスーパーに行きました。
尾頭付きの鯛などを購入し、レジに向かおうとしたところ、14時46分その時が来ました。

最初はかすかに揺れているような状態が2~30秒ほどありました。
私の近くにいたお婆さんが私に「揺れているよねぇ?」と言われ初めて気がつきました。
「逃げたほうがいいかね?」と聞くお婆さんを「そうですね、少し長いですからね」と避難誘導をしようとした時に、突然激揺れが始まりました。
お婆さんを出口に誘導しようとする途中、パニックになったオバサンたちが我こそはと言わんばかりに出口に走っていきました。
混雑時ならば事故になってもおかしくない状況でした。
店内ではお酒類などの瓶が割れて飛散し、とても危険な状態でした。
しばらく揺れが続く中、私とお婆さんは外には出ずに、出口の自動ドアのところで待機していました。

遠くでは千葉県にある石油コンビナートが爆発炎上
空を覆っているのは雲ではなく煙です
やがて揺れが収まり、外に出てみると歩道や車道に人が溢れ返っていました。
遠くには火災で煙が上がっている場所もありました。
慌てて妻の携帯に電話をしましたが、繋がるものの電話に出ず、かけ直した時にはすでに繋がらなくなってしまいました。
店内は酷い状況ながらも営業を再開していたので、買い物だけをすぐに済まし、自宅に急いで戻りました。

自宅マンション付近まで来たとき、妻が子供を抱いてマンションの入り口から出てきたのを見つけ、ようやく安否を確認しました。
ほどなく妻と合流しましたが、エレベータは停止しているは、火災報知機が作動している(誤作動)はで、24階にある部屋には戻ることができませんでした。
災害時の管理体制も全くできておらず、通信回線が破綻した状態の中、管理人は会社からの指示を待つしかできない状態には困りました。
火災警報に促され住民は続々と1階ロビーに集合し、あっという間に人で溢れました。
その時、携帯電話のテレビでニュースを見ていましたが、映っていたのは見たこともない津波の中継でした。
最初は何が起きているのか理解できませんでしたが、福島にある妻の実家が心配になりました。

ようやく自宅に戻れたときのテレビの映像
地震から既に2時間近く経過していました
管理人が会社と連絡をとれないことを理由に、部屋に戻らないでくださいというのに痺れを切らし、24階にある部屋まで階段で登っていきました。
自宅のあるフロアの防火扉は閉まっていましたが、壊れていて閉まっていないフロアもいくつかありました。
部屋に戻ると、家財が倒れフロア照明の器具が割れていました。
水槽の水は床にこぼれ、流し台の食器は散乱していました。
上層階だった割には被害は少なかったのですが、部屋によっては天井に吊り下げたスピーカー落ちたり、テレビが倒れて使えなくなったりした部屋も結構あったそうです。

地震当時、娘と部屋にいた妻の話を聞くと、揺れが凄すぎて生きた心地がしなかったそうです。
地上よりは地震後も免震のため左右に大きく揺れる高層マンションの盲点なのかもしれません。
揺れることによって、家財は散乱する、非難口にも向かえないでは危険極まりないと思います。
外部との連絡手段の確保、揺れた状態での避難通路や待機場所の確保、この2つのポイントは常に考えておく必要がありそうです。

あれから既に半年以上経ちますが、地震や放射能汚染を懸念して転居した方も多いそうです。
地震や津波で被災した方の一刻も早いご回復と、お亡くなりになった方のご冥福を、あらためてお祈りいたします。

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