20年以上住み続けた東京を離れ北海道へ移住する。
これが我が家が最終的に出した結論でした。
移住の予定は2012年1月中旬ですが、そこに至るまでには色々なことがありました。
遡ること8年前2003年のある日、当時35歳だった私は、40歳からの生き方について考えていました。
20歳の時に上京。
間もなく広告業界で独立したいという目標を持つようになり、4年間にわたりシステムエンジニアとして働いた後に広告プロダクションに転職。
そこで5年ぐらい下積みし、1997年の29歳の時に独立。
世の中が不景気だったにもかかわらず、取引先の方やスタッフさんなど、皆さんのお陰で順調に業績は右肩上がり。
いわゆる3年毎の試練などの様々な試練が訪れましたが、うまく乗り切ってきました。
しかし私は、段々とこれまでに無かった違和感を覚えてきておりました。
(ここまでは詳しく振り返るとかなり長くなるので、とりあえずダイジェスト的にこれまでを振り返っておきます。詳細は都度、テーマにあわせて振り返ってみます。)
そして独立から6年経った35歳の時。
「このままこの事業を継続、拡大をしていくことが自分にとって本当に良いことなのか?」
「自分が死ぬ間際に、やれるだけの事は精一杯やり抜いたと思えるだろうか?」
「自分の子供(当時はまだいません)が父親の生き方を誇りに思うことができるようになるだろうか?」
そんな疑問を抱き、選択した道は、事業の継続よりも、もっともっと人と社会のために働き生きていくことでした。
当時、私が営んでいた事業は、クライアント企業の発展に貢献することが事業の目的であったため、違和感を覚えていたようです。
もちろん、これは私個人の価値観であって、広告業界を批判するものではありません。
広告業界でも人や社会のためになる仕事はいくらでもありますし、私はもっと直接的に携わりたかっただけです。
ではどうやって人や社会のために働くのか、それは帰省した時に、尊敬する叔母との会話で決まりました。
ふと叔母さんが「帯広もだんだんと錆びれてきて、賑やかだった駅前通はすっかり閑散として経済も低下する一方。何か始めないとこのままでは大変なことになる。」と言いました。
私も年に1度は帰省したので、状況はなんとなく感じてはいましたが、あらためて叔母から話をされ、これまでにない危機感を感じました。
2008年頃の帯広駅前通り |
そして、続けて叔母が「だいこく(仮名w)ちゃんのような、外で飯を食ってきたような人達が戻ってきて頑張らなきゃダメなのよ」と言った言葉が決定打でした。
正直、自分みたいな若造に何ができるのだろうか?例えできたとしても大したことではないと思いましたが、精一杯頑張ることだけはできると思いました。
そして帰省を終え、東京に帰るころには決意が固まってました。
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