2011年10月31日月曜日

パンの次はカステラ

先週の土曜日に、またまた自転車で遠出してきました。
前回はパンでしたが、今回はカステラです。
食べ物ばかりですみません。(笑)
カステラを買いにいくために、わざわざ100kmも往復するのはもったいないので、途中、私が自転車を買ったショップがイベントをしているということで、試乗目当てで遊びに行ってきました。

カステラといえば、私たちの世代はあのCMを思い出しますよね?
「♪カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂~♪」
そうなんです、今回カステラを買いに行ったのは、その文明堂の浦和工場売店で、特別セールの日に売っている「窯出しカステラ」というものなんです。
窯出しカステラって、名前だけで想像を掻き立てられちゃいますね。(笑)

なんかすごいイベントですよね・・・
このシートの後ろに自転車乗りがウジャウジャいますw
片道50kmの道をカステラのためだけにひたすら走り、浦和工場売店を目指しました。
途中、荒川サイクリングロード沿いの空き地で片山右京さん出演のイベントが催されており、先日問題になった「自転車は車道を走れ」についてパネルディスカッションをしていました。
少しだけ聞いてつまらなかったので先を急ぎ、少々迷いながらも無事に到着しました。

まさに焼きたてを切りながら販売しています
窯だしカステラは売店横の建物の中で売られており、そこには買い物客が沢山いました。
入ってすぐに試食ができ、「ハニー」と「メープル」の2種類を食べ比べることができます。

お土産用にハニーとメープルをそれぞれ1つづ買い、その後で試食にパクつきました。
「んんんっ!うまい!」と思わず言ってしまいました。(笑)
カステラは焼きたては美味しくないと聞いていましたが、そんなの間違いですね。
ふわふわなのに、しっとりで、おまけにホカホカです。
カステラ好きの私でも初めての食感でした。
形が崩れないように片ナップに入れ、なるべく前傾姿勢をとり、背中に乗せるように自転車に乗りました。かなり滑稽な見栄えだったと思います。(笑)


大きいパエリア鍋で炊かれるパエリア うますぎ
その足で、ショップが開催するイベントに向かいました。
会場に着くころには、お腹がすいていたのでさっそく会場で販売していたパエリアを買って食べました。
その辺のスペイン料理やで食べるパエリアより美味しかったですよ。ほんと。(笑)
腹八分目のところで早速試乗にしました。
写真は撮りませんでしたが、試乗したバイクは、
・PINARELLO ROKH
・PINARELLO DOGMA2
・KUOTA KULT
・COLNAGO C59
の4台でした。
一番印象に残ったのは、やはりPINARELLO ROKHでした。
この車種は私の乗っている車種の対抗馬なんですね。
今の自転車を買う前に比較検討してたんですけど、発売まで待ちきれずに諦めた車種です。
短い距離しか試乗できなく、しかもペダルがフラットだったのでハッキリとはいえませんが、乗り心地がスペシャライズドのRoubaixより、しなやかに感じました。
綺麗な路面だったので耐振性は分かりませんが、しなやかさでは明らかに違いました。
踏んだ感じと、左右に振った感じから剛性もRoubaixよりはあるように感じました。
(※素人評論ですので、ご容赦ください)
正直、こんなに賑わっているとは思いませんでした
本当はロングライドした時の感じを知りたかったのですが、試乗会ではさすがにそれは無理ですね。
3代目はスペシャライズドのS-works Roubaixと思っていましたが、もしかしたらROKHの上位車種であるDOGMA Kかもしれませんね。
自転車は乗ってみなきゃ分からないですねぇ。

私の好きなスペシャライズドは出展していませんでした。
というか、スペシャライズドって今週金曜日から開催されるサイクルモード2011にも出展しないんですよね。
残念というか、なんというか・・・

というわけで、試乗も終わり帰るのが面倒くさくならないうちに帰路に着きました。
帰ってから美味しそうにカステラを頬張る妻を見ていると、「次の自転車なんだけどさぁ」と口が裂けても言えなくなり、黙って自分の口にカステラを押し込みました。(笑)

2011年10月30日日曜日

我が家の2011年3月11日

この経験が別な災害時に無駄にならないように、忘れないうちに記録しておきます。

その日はちょうど娘の「お食い初め(100日)」の日でした。
初めての子供ですから、親バカっぷりを発揮して、その日は朝から準備に大忙しでした。
写真館で記念写真を撮ろうかと思っていましたが、何か嫌な予感がしたので取りやめました。
今考えれば幸いでした。
夜ご飯はきちんとした儀式的な感じにしようと、私は買い物に行き、妻は家で調理の下準備をしていました。

地震の時にいたスーパー
いかにも何か上から落ちてきそうな感じですよねw
午後から出かけた私は、まず水天宮、富岡八幡、深川不動尊により、それぞれの場所で儀式用にお皿に載せる石を頂いてきました。
富岡八幡で結婚式を挙げていた方がいましたが、あの方たちはその後大変だったんでしょうね。

その後、自宅から程近い豊洲にあるスーパーに行きました。
尾頭付きの鯛などを購入し、レジに向かおうとしたところ、14時46分その時が来ました。

最初はかすかに揺れているような状態が2~30秒ほどありました。
私の近くにいたお婆さんが私に「揺れているよねぇ?」と言われ初めて気がつきました。
「逃げたほうがいいかね?」と聞くお婆さんを「そうですね、少し長いですからね」と避難誘導をしようとした時に、突然激揺れが始まりました。
お婆さんを出口に誘導しようとする途中、パニックになったオバサンたちが我こそはと言わんばかりに出口に走っていきました。
混雑時ならば事故になってもおかしくない状況でした。
店内ではお酒類などの瓶が割れて飛散し、とても危険な状態でした。
しばらく揺れが続く中、私とお婆さんは外には出ずに、出口の自動ドアのところで待機していました。

遠くでは千葉県にある石油コンビナートが爆発炎上
空を覆っているのは雲ではなく煙です
やがて揺れが収まり、外に出てみると歩道や車道に人が溢れ返っていました。
遠くには火災で煙が上がっている場所もありました。
慌てて妻の携帯に電話をしましたが、繋がるものの電話に出ず、かけ直した時にはすでに繋がらなくなってしまいました。
店内は酷い状況ながらも営業を再開していたので、買い物だけをすぐに済まし、自宅に急いで戻りました。

自宅マンション付近まで来たとき、妻が子供を抱いてマンションの入り口から出てきたのを見つけ、ようやく安否を確認しました。
ほどなく妻と合流しましたが、エレベータは停止しているは、火災報知機が作動している(誤作動)はで、24階にある部屋には戻ることができませんでした。
災害時の管理体制も全くできておらず、通信回線が破綻した状態の中、管理人は会社からの指示を待つしかできない状態には困りました。
火災警報に促され住民は続々と1階ロビーに集合し、あっという間に人で溢れました。
その時、携帯電話のテレビでニュースを見ていましたが、映っていたのは見たこともない津波の中継でした。
最初は何が起きているのか理解できませんでしたが、福島にある妻の実家が心配になりました。

ようやく自宅に戻れたときのテレビの映像
地震から既に2時間近く経過していました
管理人が会社と連絡をとれないことを理由に、部屋に戻らないでくださいというのに痺れを切らし、24階にある部屋まで階段で登っていきました。
自宅のあるフロアの防火扉は閉まっていましたが、壊れていて閉まっていないフロアもいくつかありました。
部屋に戻ると、家財が倒れフロア照明の器具が割れていました。
水槽の水は床にこぼれ、流し台の食器は散乱していました。
上層階だった割には被害は少なかったのですが、部屋によっては天井に吊り下げたスピーカー落ちたり、テレビが倒れて使えなくなったりした部屋も結構あったそうです。

地震当時、娘と部屋にいた妻の話を聞くと、揺れが凄すぎて生きた心地がしなかったそうです。
地上よりは地震後も免震のため左右に大きく揺れる高層マンションの盲点なのかもしれません。
揺れることによって、家財は散乱する、非難口にも向かえないでは危険極まりないと思います。
外部との連絡手段の確保、揺れた状態での避難通路や待機場所の確保、この2つのポイントは常に考えておく必要がありそうです。

あれから既に半年以上経ちますが、地震や放射能汚染を懸念して転居した方も多いそうです。
地震や津波で被災した方の一刻も早いご回復と、お亡くなりになった方のご冥福を、あらためてお祈りいたします。

2011年10月29日土曜日

ちょっと予定より早いけど決まりそう・・・

11月に入ったらボチボチ物件でも探そうかなぁなんて思っておりましたが、
帯広に住んでいる妹が、暇をみては車で走りながら入居募集をチェックしてくれておりまして、気になる物件があればチェックしてくれております。
そしてつい先日、希望に合いそうな建築中の物件があったとの連絡があり、さっそく不動産屋さんに連絡してみました。
ところがその物件の間取りは1LDKで、希望の間取りではなかったため、残念ながらNGでした。
まあ、しょうがないかと、そこの不動産屋のサイトをチェックしていると、何やらいい感じの物件があるじゃありませんか!
さっそく問い合わせてみると、来年1月から入居可能な建築中の物件との事!
う~ん、運命を感じます!
間取りも希望通り!ロケーションも希望通り!お家賃も想定範囲内!
う~ん、ますます運命を感じる!

というわけで、一先ず申し込みをしてしまいました。(笑)

まだ、大家様の審査と契約をしていないので、入居させてもらえるかどうかは分かりませんけどね。
これだけ運命を感じていても、まだ他にないのかと、十数社の不動産屋サイトをチェックしましたが、どうやら無さそうです。
新築だと1月に入るには、すでに応募している物件でなければならないし、築浅でも見つけた物件をキャンセルして、11月に行くまでに何か出るのをまつというのはあまりにもギャンブルだし・・・
どうやら決めどころっぽいですね。
物件の内容的にも足が早そうなので、この機会を逃したら後悔しそうです。

といいつつも、今まで何年も、何軒も賃貸物件を見てきた私たちですから、気づいた疑問は全て確認してみようと思っています。
まあ、それであまりにも妥協できないことがあれば、断腸の思いでキャンセルしますが、この段階でほぼそれは無いと思います。

一番気になるのは周辺の環境です。
隣人の方々、建物のレイアウト、雰囲気などなどを実家の両親と妹に見てきてもらおうと思っております。
それで問題が無さそうであれば、もうほぼ決めてしまうと思います。
あれだけ引越しをしてきた私たちでも、物件を見ないで決めるのは初めてのことですので、いささか緊張します。
まあ、ここは自分の運命や運勢と、ご縁を信じて前向きに進めていこうと思っています。
全然、納得いく物件が無いよりはマシですしね。
ありがたいことです。

しかし、そうなってくると11月の帰省は時間が空いてしまうので、何か遊びのプランでも練ろうかと思っています。
地元の友人にでも会おうかなぁ・・・

あ、文字ばっかりになってしまったw

東京での住まい遍歴 後編

いよいよ、最終編になります。
ここから移住のための準備が着々と進んできいきます。
現在の住居までには、ようやくオフィスの備品や家財の処分なども落ち着き、一般家庭と同様規模で北海道への移転ができそうです。

【2004年~2005年】東京都江戸川区船堀
今考えると、家賃が相場より無駄に高かったような気がしますw
事務所と住居を兼ねてということで部屋を探しました。
事務所にあった備品をある程度は処分したものの、住居の家財とあわせると結構な広さが必要になりました。
かつ、家賃を抑えたいとなると中央区近辺などでは物件がなく、選んだのは江戸川区でした。
駅から徒歩2分で、駅前の繁華街のすぐ近くにある3LDKの新築マンションでした。
この部屋の家賃は33万円ぐらいでした。
駐車場は敷地内が空いておらず、近隣で1万5千円でした。
明石町のマンションと家賃はさほど変わりませんでしたが、オフィスの家賃がない分、安くなりました。
最寄り駅は都営新宿線の船堀駅で、安売りスーパーなども多い庶民的なところです。
和光市に住んでいたころ以来の生活のしやすさだったので、とても楽しかったです。
ここに住んでいるときに、一度は、北海道への移住を目前に急遽移住を取りやめます。
すでにマンションの解約までしていたため近隣で慌てて次の住居を探しました。

【2005年~2009年】東京都江戸川区船堀
真ん中のベージュの物件です
なぜか町内会の役員までやらされました・・・
移住を目前に、事務所の備品や家財などをいくらか処分をしていたものの、やはりそれなりの広さが必要な状況でした。
しかも、急な物件探しだったので、正直物件が見つかるか不安でした。
ところが運よく近所で築1年の一戸建てが空いており、その日に契約をしました。
駅から徒歩7分で、1階に2部屋、2階にリビングとキッチン、3階に2部屋の4LDKの一戸建てでした。
この部屋の家賃は19万円ぐらいと前の家賃と比べると大幅に安くなりました。
カーポート付の広めの駐車場もついており家賃に込みでした。
江戸川区に移転してきたときに、この物件があれば迷うことなくここに決めていたとは思いますが、やはり不動産はご縁ものというだけあり仕方ありません。
本当にラッキーでした。
満足度も高かったため、ここから引越しすることは無いだろうと思っていましたが、徐々に家財やオフィスの備品などを処分していくうちに、広すぎて無駄が生じてきたので、移転を考え始めました。

【2009年~2012年】東京都江東区辰巳
振り返ると、このマンションが一番住み心地も良くて、生活も一番楽しいです
東京での最後の住居になります。
ここに引っ越してきて、さらに人生が動き始めました。
引っ越してすぐに子供ができ、十勝へのUターンも現実となりました。
駅から徒歩10分で、築10年のタワーマンションです。
この部屋の家賃は17万円ぐらいで、管理費が1万5千円と高いものの、以前と同じぐらいの家賃で部屋の広さも最適な物件でした。
近所には最近開発が進み話題のスポットになっているお台場や豊洲が近く、近所には24時間の大手スーパーがあるなど、生活に大変便利な場所です。
このマンションは、運河に2方を囲まれ、その運河沿いに遊歩道があり、安全に子供の散歩ができることも気に入りました。
また、妻の職場が豊洲でしたので、妊娠中の満員電車に乗らずにすむということも幸いしました。

以上で、東京での住まいの変遷は終わりですが、こうして振り替えって見ることで、あらためてその時の暮らしや仕事振りを思い出すことができました。
今後、移転先の帯広で頑張っていこうとする前に、いい人生の整理ができました。
しかし、数えてみれば二十数年の間に寮生活も含め9軒も住居を替えるとは、それに伴う労力と費用を考えると、われながら呆れてしまいます。
でも、移転のたびに様々な人とのご縁があったり、さまざまな地域を知ることができたのは、私たち夫婦にとっては、大切な財産となりました。

2011年10月27日木曜日

ロングライドが好きです

「東京での住まい遍歴 後編」を投稿しようと思いましたが、むかし話ばかりもアレなので、今のお話でちょっとだけ休憩します。

サイクリストに大人気のパン工房シロクマ
見ての通りですが、私しかいません フフフ
あんまり天気が良かったので、今日は仕事を早めに切り上げて自転車でロングライドにいってきました。
埼玉県の奥のほうに越生というところがありまして、その越生に「パン工房シロクマ」というパン屋さんがあります。
首都圏の自転車好きなら多くの人が知っているパン屋さんで、ツーリングのゴール地点にする方も多いお店です。
土日にはパンも売り切れてしまうほどの繁盛っぷりで、駐輪場もいっぱいになります。

今日はそのお店に行って昼食にパンを食べ、お土産のパンを買って帰ってきました。
目的はそれだけ?という声が聞こえてきそうですが、私の自宅からこお店まで片道90kmぐらいのルートがあるので、そこを往復し180kmを走ろうというのが本当の目的です。
北海道に帰ったらブルベをやりたいので、まずはブルベ200kmの練習も兼ねてます。

天気は良かったのですが、若干風が強かったので比較的ゆっくり目に行きました。
(本当はこのスピードぐらいが私にはちょうどいいのは内緒ですw)
ブルベで200km完走する競技をBRM200といいます。
制限時間は13時間30分です。
制限時間内に走る自信はありますが、200kmは走ったことがないので、ドリンクや携行食の量がどのぐらい必要なのかわかりませんでした。
200km以上の競技もあるので、このドリンク、携行食、休憩のプランを立てるのは非常に重要になってきます。
食べたいとき、飲みたいときにお店がないなんて良くありますから。
下流は広い荒川サイクリングロードも
上流近くなると奥の細道です

前置きはこの辺にして・・・
ルートは良く行く荒川サイクリングロードを北上し、上尾のあたりから一般道に出ます。そこから一般道を北西に走りながら川島、高坂というところを経由し、物見山というプチ山を越え、しばらく走ると越生に到着。
地図で見ると分からないんですが、お店は山間にあり、結構自然あふれる場所なんです。しかし、お店の近辺をロードバイクに乗ったカッコいいお兄さんが走っていたり、お爺さんまでもがマウンテンバイクに乗っていたりと不思議な地域でした。



テラスのテーブルで目の前にあるお山を見ながらので昼食です
さっそく昼食用とお土産用のパンを買い、最近改築したテラス席でパンを食べました。
これが結構おいしいんですよ。
しかも安いんです!
お土産用に8個、昼食用に5個(も)、牛乳、炭酸水、1800円ぐらいでした。
あと、お土産を入れて背負うためのシロクマ特製片ナップ190円も買いました。
全部で2,000円は安いですね。

食事の後、一人で寂しく写真を撮り、店を後にしました。
来た道を戻るルートで帰り、荒川サイクリングロードを走っているうちに、日が落ちてしまいました。
夜のサイクリングロードは本当に怖いです。
自転車ではなく、歩行者がすごく怖いんです。
慣れている人はライトを持ったり、リフレクターという反射テープを付けた服を着ているのですが、何もしていない人も結構います。
自転車のライトに照らされて認識できるのは、かなり近づいてからなので、油断すると間違いなく轢き、間違いなく骨折するでしょう。
自転車だって無事とは思えません。
ちなみに、今日私は、道の真ん中で座って夜景を楽しんでいた猫ちゃんを轢きそうになりました。
夜景はすごく綺麗で夜のサイクリングロードは素敵なんですけどね。

サイクルコンピュータの記録
クリックで拡大できます
帰る途中、サイクルコンピュータの操作ミスで40kmぐらいの記録をロストしてしまいました。
余計なことしなきゃ良かった・・・本当に残念です。
といっても、180kmは走ってきたことに違いは無いので忘れましょう。
サイクルコンピューターは、単純にスピードや走行距離を測るものあれば、自転車にセンサーをつけ、スピード、走行場所、ペダルの回転数(ケイデンスといいます)、心拍数など様々なデータを測りながら記録するものもあります。
私の使っているものは後者になります。
記録はパソコンで見ることができ、データをセーブしておけます。
パソコンで見れる画面のキャプチャーを掲載しておきます。
いろいろ画面をカスタマイズできるのですが、私のはほぼ初期のままです。
距離やルート地図などがロストした分は記録されていません。



ロングライドで初めて行く土地や、初めて見る風景を楽しむのが本当に面白くて止められません。(笑)
行ったことのある場所でも自転車に乗りながら見る風景や景色は全然違います。
十勝で走るのが今から楽しみです。
雪が解けてからですけどね・・・

東京での住まい遍歴 中編

事業は順調に伸び、売り上げや利益がどんどん増えながら、住まいもどんどん贅沢になってきたのがこの時期です。
都心部での高級マンションには到底及びませんが、家賃もどんどん高くなっていきました。
新しい環境に住むことが私たちのストレス解消になっていたのかもしれません。


【1998年~2000年】東京都江東区深川
下町の風情が心地よい深川
近くの川ではハゼが釣れます
独立して間もなく、レギュラーの仕事が増えてきたのをきっかけに都内に移転することにしました。
当初は自宅の一部屋を事務所にしていました。
駅から徒歩7分で、3LDKの新築マンションのファミリー向けマンションでした。
都内に始めて住む私たちは、不思議な緊張感を感じました。(笑)
この部屋の家賃は20万円ぐらいでした。
駐車場は敷地内で3万円ぐらいだったかと思います。
最寄り駅は東西線の門前仲町駅で、取引先が銀座に多かったのもあり交通の便が非常に良かったです。
深川は東京の下町中の下町ですが、風情と歴史がありとてもすごしやすい場所でした。
私たちはこの城東地区が大変気に入り、以来この周辺での移転を繰り返すことになります。
近所には神社仏閣が多数あり、中でも富岡八幡宮と深川不動尊には、今でも事あるごとに参拝に訪れております。
また、ここで知り合った不動産屋を営むおばちゃんには本当にお世話になり、私たちが始めて持つ事務所もこの方に自宅の近所で紹介していただきました。

【2000年~2002年】東京都中央区箱崎
バブルの時に建てられた重厚なマンションです
事業が順調に伸びる中で従業員も増え始め、門前仲町の事務所が手狭になり広い事務所に移転をすることになりました。
仕事場の近くに自宅を構えたい派(実際にそういう派閥はありませんw)の私は、それに伴い、自宅も移転することになりました。
駅から徒歩7分で、2LDKの中古マンションですが、大手不動産会社が運営する重厚なマンションでした。
現在某県の知事も知事になる前にこちらのマンションに住んでいました。
この部屋の家賃は23万円ぐらいでした。
駐車場は敷地内で5万5千円ぐらいだったかと思います。
最寄り駅は半蔵門線の水天宮駅か、東西線の茅場町駅で、こんなとろに人が住むところがあるのか?というぐらいのオフィス街です。
マンションの敷地内に日本IBMの本社がありました。(笑)
羽田空港や成田空港へのリムジンバスのターミナルになっている場所としても有名なところです。
また、すぐ近くに人形町というところがあり、昔ながらの名店や老舗が多いことで有名です。
また、水天宮駅の水天宮とは神社の名称で、安産祈願の神社としてとても有名なところです。
娘が生まれる前後には、こちらの神社へ参拝に行きました。

【2002年~2004年】東京都中央区明石町
お風呂の窓が隅田川に面しており
湯船につかりながら景色が楽しめるやらしいお部屋ですw
2LDKの部屋が手狭になり、もう少し広いところで事務所にもっと近いところをということで移転しました。
駅から徒歩7分で、前の住居と同じ大手不動産会社が運営する2LDKの新築マンションでした。
この部屋の家賃は33万円ぐらいでした。
駐車場は敷地内で4万円ぐらいだったかと思います。
最寄り駅は有楽町線の新富町駅で、近くに聖路加タワーや聖路加病院、築地市場などがあるところです。
歩いて銀座に行ける場所で、仕事に買い物に大変便利なところでした。
しかし、生活するには不便で、食材などは日本橋あたりの百貨店で買うこともしばしばでした。
前の住居のときもそうでしたが、春には隅田川沿いの桜が綺麗で花見をしたり、夏には隅田川花火大会も見れるなどのロケーションでした。

明石町に住み始めて間もなく、仕事は更に忙しくなり、ほとんど寝に帰るだけの家になってきました。
オフィスの近くに自宅があったこともあり、夜中から私のオフィスで打ち合せをするなど、利便性とメリハリのバランスが崩れはじめました。
明石町に住みはじめて1年ぐらいした頃に、新たなステップのために動き始めました。
事業を縮小し始めると同時に、その翌年には経費の削減も含め自宅とオフィスを兼ねた住居に移転をすることになります。
次回で「東京での住まい遍歴」は最後となります。

2011年10月26日水曜日

東京での住まい遍歴 前編

上京してから23年間の間に、結構いろいろなところに住んできました。
その経緯をログっておこうと思います。
タイトルの「東京での・・・」ですが、前編は神奈川、埼玉になるので東京ではありませんが、まあ、気にしないでください。(笑)

【1988年~1989年】 神奈川県横浜市緑区藤が丘
事業所と寮があった場所には、マンションが建っております
上京して中堅のソフトウェア開発会社に就職した私は、入社後1年間は必ず寮に入らなければならない規則がありました。
寮は横浜緑区にある事業所の3上にありました。
施設は新しかったのですが、6畳に2人部屋なのでとても狭かったです。
部屋、トイレ、洗面所、洗濯機、風呂は共同で寝るか寛ぐだけの部屋でした。
家賃は覚えておりませんが、確か3万円ぐらいだったような気がします。
最寄の駅は東急田園都市線の藤が丘という駅で、当時は駅周辺になぁんにもない駅でした。
会社の上に寮があったので、飲みにいく時以外は、寮と会社の往復でした。
もうこの施設は取り壊され、分譲マンションになっています。

【1989年~1994年】 神奈川県相模原市上鶴間
いわゆるよくあるアパートです
今でもあることに驚きです
1年間の寮生活を終え、そのまま寮にいてもよかったのですが、私はすぐに一人暮らしをし始めました。
学生の時は寮に入っていたので、初めての一人暮らしでした。
駅から徒歩7分で、6畳一間ロフト付という、よくある単身者向けの2階建てアパートで、最初は1階に住んでいたのですが、2年目の更新のときに2階に移転しました。
特に気いっていた物件でもありませんでしたが、ここに住んでいたころの私は。そういう訳の分からない行動をよくする習性がありました。(笑)
このアパートに引っ越してきたとき、なぜか会社の先輩と一緒にこの物件に引っ越し、先隣の部屋には先輩が入居しました。
アパートは新築でしたが、造りも安っぽく、日当たりはあまりよくありませんでした。
ロフトにはカビが生え、隣(先輩)の見ているテレビの音がかすかに聞こえてきました。
家賃は正確には覚えておりませんが、1階に住んでいたときは4万7千円ぐらいで、2階に住んでいたときは5万2千円ぐらいでした。
最寄の駅は小田急線の東林間駅という駅で、都心からはほど遠い寂れた地域でした。
このアパートは私たち夫婦にとって原点となる思い出の場所です。
というのも、最後の2年間ぐらいはこの狭いアパートで一緒に住みはじめました。
世間で言う同棲ってやつです。
広告業界で死ぬ気で頑張ろうと思っていた私は、当時付き合っていた妻とあまり会えなくなる予感がしていたのと、収入が激落ちするため生活費も2人でならと思い、それだったらと妻に相談したところ、妻もそれに共感し同棲生活が始まりました。
しかし、今考えれば、ずいぶんと不便なところに住んでいたと思います。
なにせ乗換えが悪いときには、通勤に片道1時間30分かかっていましたから。

【1994年~1998年】埼玉県和光市丸山台
苦しい時を過ごした最後の場所です
生活するのに必死でした
結婚を機に引っ越したのがこのマンションです。
神奈川県から埼玉県への引越しは東京を挟むため、意識的にも遠い感じがしました。
駅から徒歩13分で、3DKの新築マンションでファミリー向けのマンションでした。
6畳一間から広い部屋に引っ越せた私たちはおおはしゃぎでした。(笑)
この部屋の家賃は12万5千円ぐらいでした。
最寄の駅は有楽町線(東武東上線)の和光市駅で、池袋から急行で15分というロケーションは、都心から離れた場所に住んでいた私たちにとっては大変嬉しいことでした。
最初は畑の多かったこの地域も、私たちが住み始めたぐらいから、区画整理や路線の整備がどんどん進み、駅前がどんどん賑やかになり、マンションも次々に建てられました。
同時に治安も悪くなり、自転車2台、スクーター1台が駅前の駐輪場で盗まれました。
バブルがはじけた直後でしたので、生活は楽ではありませんでしたが、仕事も順調で、やがてこの場所で事業を創業し始めました。
その時に顧問会計士の先生とのご縁がありました。
この先生は元海軍航空隊の軍人だった方で、お仕事のこと、会社のこと、人生のことなど、様々なことを学びました。

まだまだこの先がありますが、あまりにも長くなるので一先ずここで区切ります。
ここまでが状況から独立直後までの住まいですが、社会人になってからの修行の場でもありました。
もちろん今も修行中ですが、いわゆる若い時期の下積みという時期であったと思います。この時の経験やご縁などが全てこの後の人生のベースになっていきます。
こうして振り返ると住まいって、その人の成長度と、その時に持っている価値観を表すものですね。

2011年10月24日月曜日

お酒のお話 ご縁偏

前回は失敗偏でしたが、今回はご縁のお話です。
ご縁といっても女性とのご縁ではありません。人生のご縁です。

取り壊し直前のジョージです

20代前半によく飲みにいっていたバー「六本木ジョージ」(正式名称は「ジョージス」)について前回も少しだけ触れましたが、そのお店のお話しです。
当時世の中はバブル真っ盛りで、社会人になって間もない私でも、遊ぶお金は結構持っておりました。
一回飲みに行くと、だいたい2~3軒は飲みあるき、最後に決まっていくのが「ジョージ」でした。
上京して間もないころ、学生時代の友人に連れてきてもらって以来、この店が大好きになり、独立するころまでよく行ってました。

ここの店は、お世辞にも広いとはいえない店内で、お世辞にも綺麗とはいえない内装で、お世辞にも愛想がいいとはいえないママ岡田信子さん(ママごめんね)がいるお店でした。
でも、この店にはさりげない暖かな愛がありました。
名物の古いジュークボックスからはソウルミュージックが延々と途絶えることなく流れ、その曲に、時には励まされ、時には慰められ、時には癒されていました。


このジュークボックスがジョージの象徴です
私はここのママが大好きで、よく来店の時にはママの好きなお花を持っていきました。
狭い店内で、ママに励まされたり、怒られたり、褒められたりしながら、本当に楽しい時間を過ごさせてもらいました。

システムエンジニアという職業に嫌気がさして悩んでいた時に、このお店に来ていた広告業界の人と話をして、広告業界に行くことを決めました。
ここで出会った人の話を聞いて行きたくなったので、このお店に来ていなければ、広告業界には行ってなかったかも知れません。
このお店が無ければ、今の私は有りません。
私の運命にとっては、このお店はご縁の深い、大変重要な場所だったんです。

結婚をしてからも妻や会社の同僚と行ってましたが、行く回数はどんどん減っていき、独立するころには全く行かなくなってしまいました。
店の前を車で通るたびに、「ママ元気かなぁ」とは思うものの仕事に夢中になっていた私には飲みにいくことすら、ほとんど無くなっていました。
酒は飲まなくても顔ぐらいだしていればよかった。

私も知らない昔のママ
かっこいい!

私が独立してから数年後、ジョージの開店から37年目の2001年10月10日、ママが亡くなりました・・・
ママが亡くなって、しばらく経ってから風の便りで聞きました。
大変ショックでした。すごく大切なものを失ってしまった感じがしました。
同時に「気にしているぐらいなら行けばよかった」と後悔の念すら抱きました。

ママが37年間守りぬいた六本木ジョージは、隣接する旧防衛庁跡地での東京ミッドタウンの開発と同時に無くなりました。
現在は店のあった部分だけが植え込みになっています。
時々、その前を通っては、無いはずのジョージが浮かんできますが、思い出すたびに心の中にポッカリ空いた穴が少しずつ拡がっていきます。

2005年に、お客だった方がジョージを再現し、西麻布にお店を出しているという話を聞きました。
入り口は当時のままの外壁素材を使用し、同じ装飾を施しているそうで、当時のカウンターやボトル棚などを完全に再現し、壁に貼られていた無数の有名人のサインやポスター類も当時のものをそのまま使用しているそうです。
そして、あのジュークボックスは今も使用されているそうです。

生まれ変わったジョージ
昔とそっくりな外観です

私は「ぜんぜん来なくなってどうしたのよ?」とママに怒られるような気がして、怖くてお店に行けませんでした。
しかし、ママが亡くなって10年経った今、できれば移転するまでには「今度、北海道に移転することになったんだよ。ここまで大人になれたのはママのおかげだよ。」とママに報告しにお店に行ってみようと思っています。

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ジョージスはウィキペディアにも掲載されています。
詳しくはコチラをご覧ください。
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2011年10月23日日曜日

お酒のお話 失敗編

先日、禁煙の話をしたので、タバコと仲のいいお酒のお話。
ふと気づいたんだけど、煙草は「お煙草」とクラブのオネェちゃんぐらいしか言わないのに、酒は多くの人が「お酒」と言うんですね。
ま、そんなことはどうでもいいとして。
ズブロッカ
ラベルのバイソンの絵がカワイイです

私は飲めないくせにお酒が好きです。
お酒は飲めないけど、お酒の場が好きという人も中にはおりますが、私はお酒も場も好きです。
結構早くからお酒を嗜むようになり、社会人となってからはよく飲みに行きましたし、よく飲みました。
中でもズブロッカというウォッカが大好きで、トロトロになるまで凍らせて飲むのが好きでした。
このズブロッカは、世界遺産に指定されているポーランド東部の「ビアウォヴィエジャの森」に生息する香り高い薬草「バイソン・グラス」を漬込んだウォッカで、とても素敵な香りのするお酒なんです。

お酒には、いろいろな思い出があります。
中でも印象深い失敗談をログります。
お酒をいくら飲んでも記憶を失わないやっかいな体質なので、いわゆる失言や寝ゲロなどの失敗をしたことはありません。

20代前半の頃は朝まで飲み、始発で帰るなんてことはよくありました。
私が当時住んでいた路線は田園都市線という、半蔵門線、新玉川線の続きの路線で、いわゆる閑静な住宅街のお上品な人々が多く利用することで有名な路線でした。

ある日、その時のメインの遊び場だった六本木で朝まで飲み、帰りに始発を待ちながら乃木坂の公園で友人と遊びました。
雨上がりだったので泥靴は泥だらけになってしまいました。
そして、乃木坂駅で始発電車に乗り、半蔵門線の表参道駅で乗り換え、電車に乗ったとたんに激しい睡魔に襲われました。
距離も長いので少し寝ても目を覚ますだろうと友人と一緒に寝てしまったんです。

しばらくして、目を閉じたまま意識だけが戻ると、あきらかに人の気配がするのに、妙に周りが静かなのを感じました。
しかも電車の中で寝ているのに、ベッドの上で寝ているような快適な寝心地だったんです。
「ん?おかしいな・・・」と思い、ゆっくりと目を開けると、目の前に横になった女子高生の制服があるではありませんか。それもスカートの部分。しかも社内は通勤ラッシュで満員。
そうなんです、私は電車のイスに横になって寝ていたのです・・・
それも泥だらけの靴をイスの上に乗せて。(笑)

このぐらいの混み具合でしたw
慌てて目を閉じました。もうパニックですよ。
「今どこ?」、「何時?」、「どこで起き上がり、どこで降りよう」
そんなことを考えているうちに「次は~表参道~表参道~」という車内アナウンスが聞こえました。
「ん?・・・一回終点まで行って戻ってきたのか?でもそれにしては通勤時間だし・・・ということは、げっ!2往復もしてしまった・・・(泣)」
そう思うと、まるで芸人になったかのように、開き直れましたね。(笑)
まるで何事もなかったように起き上がり、イスの上の泥を払い、嘲笑は感じておりましたが、冷静な表情で(たぶん)電車から降り、反対の下り電車の列に並び会社へと直行しました。

会社に着くなり、友人に「何で起こさなかったんだよ!おまえは起きたんだろ?」と聞くと、「うん、危ないところだけどギリギリ起きて、電車から飛び降りたよ。でもさ、電車の外から探したんだけど、だいこく(仮名)くんいなかったよ」って言ったんです。
この言葉で、2往復のあいだイスの上で横になっていたことが確定しました。(笑)


よく通っていたバー 「六本木ジョージ」
もうこのお店はありません
次回は、ここの店のことをログります
20代前半はよく深酒をし、20代半ばで胃と肝臓と腎臓を患いました。
26歳の時に結婚し、そのあたりからバカみたいに飲むのを控えました。
最近、アルコール(飲酒)感受性 遺伝子検査をしてみて判明したんですが、私は飲めない体質なんです。
だから身体も悪くしてしまうんですね。

2011年10月22日土曜日

冬の大好物

昨シーズンは12月に子供が産まれたということもあり、全く行くことができませんでした。
そうです、スキーのお話です。

私の住んでいる地域はスケートがメインだったので、高校生から趣味で始めました。
小学生のころからやってはおりましたが、きちんとスキーを買って始めたのは高校生からになります。
この映画で使われた車「トヨタ セリカ GT-FOUR」まで流行る始末(笑)

高校生のときはよく、家族や友達と狩勝、日勝、トマム、富良野あたりにスキーに行きました。
あまり上手ではないですけどね。(笑)
高校を卒業後は全くスキーをしなくなりました。東京に住み始めてまもなく、映画「私をスキーに連れてって」の影響もありスキーは空前の大ブーム。
ホイチョイ馬場さんの仕掛けですから流行らないわけがありません。
なんてったて、「連れて行って」ではなく、「連れてって」ですから。(笑)
新潟や長野などのスキー場への道のりは休前日ともなれば帰省ラッシュ並みの渋滞。
ミーハーな性格のくせに「スキーは絶対に行かない」と訳の分からない誓いを立て、2004年までの18年間もスキーをしていませんでした。

すっかり世の中からスキーブームは去り、スキーからスノーボードブームの真っ最中でした。
それでも一時の大渋滞もなく、快適にスキー場にいけるようになっておりました。

18年振りに再開したスキーは、そもそもたいして上手でもなかったので、ブランクを感じることはありませんでした。
最初のうちは毎週のように栃木あたりのスキー場に行き、だんだんと月に一、二回ぐらいのペースで新潟や、長野などの少し遠めのスキー場に行くようになりました。

日本のダボスと呼ばれる菅平高原スキー場
奥に見える山もスキー場の一部です

スキー場は北海道が一番!と思い込んでいた私は、新潟や長野のスキー場の良さに驚きました。
雪質の違いなどもありますが、何よりも外気の暖かさが違うんですよね。
そして、スキー場の数が多いので、毎回違うスキー場やその近隣の温泉に行けるというところも良いですね。
驚いたのは、スキー場とスキー場が頂上付近で相互乗り入れできるスキー場もあるんですよね。
ちなみに、レストランなどは北海道のほうがいいような気もします。

以前、ふとスキー場ガイドを見ていたら、なんと十勝の糠平温泉スキー場が上位に入っているではありませんか!
小、中学生のころ行ったきり行っていなかった糠平温泉スキー場が大変身しているのを知りビックリしました。
移転後の一発目は、絶対に糠平と移転が決まったときから決めています。
昨シーズン行けなかっただけに、もう気が狂いそうです。
板なんてメンテをしすぎてエッジがなくなりそうです。・・・さすがに、それはないね。(笑)

それはさておき、趣味=仕事の私ですが、なぜかスキーだけは仕事と考えておりませんでした。
昔からやっているスポーツだからだと思いますが、何か企画できないか思案中です。
十勝のスキー場は道内、道外、海外のスキー場とくらべて、何か特徴はないだろうか。
また、何か特徴を作ることはできないだろうか。
まずは滑ってみてから考えることにします。

でも、今年から数年は子供とのソリ遊びがメインなのかなぁ・・・
娘に「連れてって」と言われたら、どんなに忙しくても断る自信がありません。(笑)

2011年10月21日金曜日

私と林檎

「日本の家電メーカーは、どの会社も固定観念から脱していない。海岸埋め尽くす死んだ魚だ。」
先日亡くなられた元アップルコンピュータCEOのスティーブ・ジョブズ氏が生前に言った言葉です。

私はスティーブ・ジョブズという人を尊敬しておりますが、例えそれが演出だとしても口の悪いところは好きではありません。
人の好き嫌いは恣意的な指標なのでさておき。
スティーブ・ジョブズ氏の作ったアップルコンピュータと共にこれまでの私の仕事人生がありました。

初めてアップルに出会ったのは、なんと帯広に住んでいた高校生3年生の時です。
店名と場所は忘れましたが、当時では珍しいパソコンショップが駅前通にある雑居ビルの2階にあり、そこにMacintosh Plusがデモ展示されておりました。
パソコン自体の大きさやデザインに驚いたのはもちろん、何と言っても画面に映し出されていたアニメーションに度肝を抜かれました。
当時、日本でパソコンといえば、NECの88シリーズや98シリーズなどが台頭しており、そのデザインや表現力はマッキントッシュとは対照的なものでした。
その衝撃といったら、今でも鮮明に覚えています。
白黒のチェッカーフラッグ模様の面の上で、同じく白黒のチェッカーフラッグ模様の球体が、ポーン、ポーンと跳ねているんですよ。動きもすごくリアルに。
まあ、今ではチャンチャラおかしいデモではありますが、当時の私にはすごくショッキングでした。
1976年から2007年までAppleプロダクト
クリックで拡大できます

高校を卒業後、コンピューターソフトウェアの勉強をしてから、東京でシステムエンジニアとして働くのですが、どうもこれが私の抱いていたイメージと違ったんですね。
ソフトウェアを作るというよりは、パソコンを使ってクリエイティブな仕事をしたかったということに気づきました。
そして、当時、博報堂の社員だった人が設立した広告プロダクションに紹介され、顔合わせの時に出会ったのが、Macintosh IIfxとIIciだったんです。
Macを使ってどのようなことをしているのかを見せてもらい、ぶったまげましたねぇ。
もう即入社させてくださいと懇願しました。(笑)

そこから独立して今日に至るまで、仕事でもプライベートでも常にAppleの製品はいつも側にあります。
そして、それは今後も変わらないと思います。
シャープの持ち歩く液晶テレビ「フリースタイル AQUOS」

話は変わり、冒頭に記載したジョブズ氏の言葉は、実は私も共感しています。
同じく共感している人は多いと思います。
先日、CEATEC JAPANという日本で最大のエレクトロニクスの展示会に行き、それを強く感じました。
一昔前はエレクトロニクスショーと言われていた展示会で、時代の流れでエレクトロニクスショーを中心にさまざまな展示会が合併してできた展示会です。
不況が長引いていることもあり、一昔前に比べガラガラでした。
大手がかろうじて頑張っているものの、それ以外は小さな装飾もしていないブースが目立ち、すっかり寂しい展示会となってしまっております。

展示されているものの目玉といったら、進化した3Dのビジュアル機器。
さらに高画質化された4Kテレビ。
極めつけは、ソニーの3Dヘッドマウントディスプレイと双眼鏡タイプの3Dビデオカメラ。それ以外には、記録メディアのクラウド化やソーラー発電や蓄電池などがありました。
まあ、どれもドキっとするような魅力的なものがないんですよね。
唯一、ドキっとしたものは、シャープの持ち歩く液晶テレビ「フリースタイル AQUOS」でした。(笑)
これは発想が最高ですね!私はシャープファンではないですが、さすが目の付け所がシャープだと思いました。
ジョブズ氏が言っている言葉は、アップルの製品を際立たせるための演出もあったかもしれませんが、日本の企業はそれを警鐘と受け止め、精進しなければならないのかも知れません。

私が仕事で企画をする際に一番気をつけていること、それは「接触する人の期待を裏切り予定調和を破壊すること」です。期待を裏切るというのはいい意味での裏切りです。
様々な事情で全てがそうならないこともありますが、まずはそこを目指し挑戦します。
ジョブズ氏が言った「固定概念から脱する」ということに似ているのであれば、私がアップルを愛してやまない理由がそこにあるのかもしれません。

あらためて、スティーブ・ジョブズ氏のご冥福を心からお祈りします。

2011年10月20日木曜日

東京で今話題になっている自転車のお話し

昨日、このようなニュースが流れました。
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自転車走行:「歩道は禁止」厳格運用 震災後に事故急増 警視庁、安全対策策定へ

警視庁は、自転車の車道左側走行の原則を順守させ、これまで積極的に摘発していなかった歩道走行の取り締まりを徹底する方針を固めた。そのうえで自転車のルール順守や走行環境の整備なども盛り込み、全国の警察本部で初となる包括的な自転車安全対策の策定作業に入った。東日本大震災以降、通勤・通学に自転車を利用する人が増え、交通事故全体に占める自転車事故の割合も増加。警視庁は「マナーを守れば防げる事故は多い」と意識向上による事故減を目指す。
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自転車が好きな私としては、何かと感慨深いニュースであります。

歩道を走ってはいけませんが・・・

歩行者、自転車、自動車とそれぞれの立場で言い分も変わるかと思います。
いずれの立場もよく知っている私としてはこう思います。

・歩行者道路、車道があるのであれば、自転車専用道路を設けてほしい。
・自転車専用道路の整備はさすがに時間とお金がかかるので、せめて自転車に対する自動車の運転ルールを早めに決めてほしい。
・年寄りや子供など、一定のルールを満たすものは歩道を走行してもいいようにしてほしい。
・自転車の既存ルールやマナーを周知徹底してほしい。ハンドサインの促進なども。
・ルールを守らないで車道を走る自転車との事故の場合、自転車側の過失をきっちりと認めてほしい。いわゆる10対0で自転車の過失だってありえます。

最後の既存ルールやマナーですが、道路交通法などは免許の取得時から細かく変更や追加されていることも多くあり、正直そんなルールがあったんだという場合も多々あります。
私自身も自転車を本格的にやり始めたころは、普通に歩道も走っていましたし、右側通行もしていました。
さまざまなイベントなどに参加するうちにルールやマナーを覚え、今ではきちんと走行しているつもりです。
マナーの押し付けではなく、まずは、きちんとマナーを知ってもらうこと。
そこからしっかりと始めてほしいものです。

まあ、そもそも警察官は普通に歩道を自転車で走っていますけどね。(笑)

ニューヨークの自転車専用レーン

話は変わりますが、私の夢のひとつに「十勝の主要道路の多くに自転車専用レーンを設ける」というものがあります。
数百キロにわたり観光拠点を結ぶ主要道路に自転車専用レーンを設け、自転車で十勝を周遊できる。
自転車好きにはとても素敵なことだと思います。
歩くには広すぎる。
自動車だと拠点ごとしか記憶に残らない。
自転車であればじっくりと程よいスピードで回遊でき、十勝を余すところなく満喫できます。

また、環境面において世界的にも話題性があり、さまざまな経済効果も期待できます。
以前、某大手電機メーカーの環境スペシャルサイト(国内外対象)を手がけた時に学びましたが、世界各国の環境に対する取り込みや意識の高さは日本のそれとは比べものになりません。
お金を効果的に使い、世界中の多くの人に喜んでもらえるのであれば、真剣に考えてもいい選択肢の一つではないでしょうか。
私たちの故郷である十勝を世界に誇れる場所にしたいですね。

帯広での住まい探し

そろそろ帯広での住まい探しをしなければなりません。
11月の下旬に帯広に一旦帰省し、もろもろ手続きや、お世話になっている方々にご挨拶に伺うのですが、その合間で物件を探そうと思っております。

すでにアパマン帯広店さんには依頼をしているのですが、他にももう1社、別の不動産屋さんもあたろうと思っております。
今、住んでいる部屋の間取り
これでギリギリです

お部屋の希望なんですが、我が家は家財が多いので最低でも2LDK。
できれば3LDKでリビングは12畳以上が希望です。
インテリアが趣味ということもあり、家具は現状を維持したいので、それらが入ることが条件となってきます。
まあ、どうしても入らない場合は実家に置く予定です
これでも数年かけて処分してきたほうなんですが、恐らく普通のご家庭に比べると多いほうだ思います。
間取りはともかく、占有面積としては70平米以上は欲しいところです。

細かいところでは、ネット環境は光を入れれることや、セキュリティ設備、スーパーなどの周辺環境などがあります。
条件にうるさいかもしれませんが、何軒も移りすんできた経験からでてきたものなので、妥協点はあるものの軽視はできません。

あと、十勝はテラスハウスが多いですね。
できれば雪掻きの心配がいらないマンションを希望しているんですが、どうしても古めの物件しかありません。
水周りのことを考えると、築年数はできるだけ新しいほうが良いので、テラスハウスも選択肢として考えたほうがよいのかと思ってはおりますが、どうしても雪掻きとセキュリティの部分で不安はあります。
我が家にとっては、そこがすごく悩ましいところであります。

いちばんお気に入りのインテリア 「ザノッタ社 ONDAソファ
有名なコルビジェのLC2ソファに似ていますが、
こちらの方がモノはいいです

そして、一番重要なのはなんといってもお家賃です。

我が家の希望を考えると帯広での相場は7万以上かなぁって感じです。
当然、首都圏と比べると破格ではあるのですが、子育てなど他の支出を考えると、できるだけお家賃は抑えたいところであります。
昔は毎月40万円近い家賃を払っていたことを考えると、本当にもったいなく思います。
駐車場代が6万円ぐらいでしたから。(笑)

いっそのこと、家でも購入したほうがなんて思いますが、ゼロから出発する以上、借り入れる信用もなければ、将来の見通しもありません。
だいたいこの歳だと返済期間が短すぎます。(笑)

なんだかんだ言っても、物件はご縁ものなので、いいご縁があることを期待しております。
比較的ご縁には恵まれているほうだと思うので。

2011年10月19日水曜日

大移動にかかる労力と費用

3ヶ月後には移転を控えているわけですが、移転にかかる労力と費用がそれなりに伴います。
2、3年に1度は引越しをしてきたような移転慣れした我が家でさえも、さすがに気が重いです。
東京から北海道に移転するとなると、通常の首都圏内でも引越しとは違う気を使い方をしてしまいます。
3ヵ月後には大移動が待っています・・・

まず、これまでお世話になった方に挨拶や報告に行かなければなりません。
まあ、全員というには時間もないので、ほとんどの人は移転後の年賀状でもいいんですけど、やはりお世話になった人というと、同い年か年上の方になりますので、せめてその方たちにはご挨拶はしておかないとと思っています。もう会えなくなるかも知れませんしね。

あと、移転後に遣り残したことがあるからといって、ホイホイと上京するわけにもいかないので、手続き関係などは抜かりなく遂行しなければなりません。
私の場合、休眠中の会社などもあるので、その移転手続きなども行わなければなりません。
存続させる必要がないなら放っておけばいいのですが、どこで必要になるか分からないので、私は存続させます。
税務、法務など、なぜリンクがされてないの?と不満に思いますが手続きがいろいろあります。
法務の手続きは管外移転の場合、費用が管内移転の場合に比べ2倍もかかります。
営業もしていないのに、この出費は痛いですよ。印紙代だけで6万円です。

あとは、自宅の引越し準備ですが、これがまた距離を伴う移転なので色々と気を使います。
・観賞魚、リクガメなどペットの移送。
・ロードバイクなどの貴重品の移送。(笑)
・自分で手持ちで運ばなければならない貴重品などの移送。
・ガソリンをほぼ空の状態にしなければならないスクーターの移送。
・引越しの時には1歳になっている娘の移送。(笑)
・引越し当日の航空券の手配。
・転居先の住まい探しと契約。
・物件の管理会社への引渡し確認。
などなど、列挙するだけでも憂鬱になります・・・

日通さんは長距離に強く、全国各地に支店や営業所があるので安心です

引越し会社はいつもお願いしているところか、新たに長距離を得意とする会社さんで検討しています。
事前に見積りをとったところ、一声50万円という金額が出てきました。
まあ、そこからトラック移送はやめてJRコンテナにするなどの交渉を重ね、35万円ぐらいでなんとかいけそうなのですが、都内での移転に比べ2倍~3倍の費用がかかります。

出費的には、新しい住居の初回費用なども全部ひっくるめると、だいたい100万円ぐらいはかかりそうです。
100万っていったら、かなりいいロードバイクが買えますよ。(笑)
まあ、こういうご時世だけに辛い出費ではあります。

しかし、大切なのは移転後の生活と仕事ですから、後半の人生への投資だと思ってがんばります!

2011年10月18日火曜日

ピザ ピザ ピザ ピザ ピザ ピザ・・・

私は太りやすい体質なので、一生ダイエットしながら生きていかなければ、娘と一緒に居れる時間が短くなる可能性が高いのです。
この歳になると代謝も落ち、油断するとブクブクと太ってきます。

当然食生活も大いに気にしているのでありまして、油系、高カロリー系、お菓子系はなるべく控えるようしております。

ドミノピザのキャンペーン「TRACKING QUIZ SHOW
そんな中、大手宅配ピザチェーンがキラーキャンペーンをやっており、いつしか私はそのキャンペーンの常連となっているのでした。
ご存知の方も多いと思いますが、そう、あの「ドミノピザ」の「TRACKING QUIZ SHOW」というキャンペーンです。

このキャンペーンの何がすごいかというと、ピザが焼きあがるまでにクイズに1問だけ正解するとクーポンがもらえるというものなのですが、クイズと商品には難易度が3段階あり、なんと最高は50%OFFというクーポンがあります。
つまり、毎回ピザを買うたびにクイズに答えて正解すると、常に50%OFFでピザが食べられるという無限ループになるのです。

クイズはかなり種類があり、どれが出題されるかは分からないのですが、
当然こういうご時勢ですから、ネットを検索すればその答えがすぐに分かります。
少なくてもピザが焼きあがるまでには、ページ検索などを使えば大抵は見つけることができます。

クーポンには期限がありますので、ループを切らしてはいけまいと、ついつい期限までにピザを購入してしまうと、ほぼ毎月ピザを食べることになります。
ダイエッターな私としては、これはかなり高頻度な高カロリー摂取になるわけで、とても危険なわけです。

すでに8月末で終了してしまいましたが、実はクイズの最難関レベルで「ビッグチャレンジ」というものがありました。
このクイズに正解すると、なんと「ピザ1年分」をもらえたんです。
答えがネットで広まり始めたら、さすがにドミノさんも焦ったんでしょうね。

ちなみに、このキャンペーンの企画、制作、運営は大変よくできております。
おそらくこれまでも制作会社のバスキュールさんが制作されてきたので、今回もきっとそうでしょう。
演出がバスキュールさんっぽいです。
私はバスキュールさんのライバルにあたる制作会社に所属しておりましたが、本当にそのセンスの良さにはリスペクトしておりました。

このピザのLサイズが50%OFFだと2,000円弱
話が反れてしまったので、元に戻しますが、私が想像するにこのキャンペーンはネットで答えが広まり、50%OFFでピザを販売することは想定済みであると思います。
そうしてでも、この内食、中食ブームで風当たりの強い中で、一人でも多くの方にドミノピザを知ってもらいたい、そして食べてもらいたいというのが本音なのではと思っております。
といっても、タダではなく50%ですからね。
ただでさえ高めの商品単価、客単価なのですから、費用対効果を鑑みても、意外と損失は少ないかと思われます。

まあ、私のダイエット的な損失のほうが大きいかもしれません。(笑)

2011年10月17日月曜日

初めてのガイガーカウンター

もうすぐ放射能汚染に縁遠い北海道に移住するし、全く買うつもりなかったんですけど、お安かったので試しに買ってみました。
娘がまだ10ヶ月なので、部屋内やベランダが汚染されていないかを調べてみたかったというのもあります。

購入したガイガーカウンターは「消臭力」でおなじみのエステーから発売された「エアカウンター」です。
通常数万円もするガイガーカウンターがナント9,800円。
ロシアなどの海外製が多い中、品質の高い日本製。
アートディレクターの佐野研二郎さんによるデザイン。
これは買いだと使うまでは思いました。(あ、ネタバレw)

商品の詳細は以下のページをご覧ください。
>商品紹介ページ(アスマル)
>メーカーのニュースリリース

アスクルのグループ会社で個人向け通販サイトの「アスマル」が先行販売したのですが、販売開始からわずか2分で売切れてしまいました。
自分でもよく買えたなぁと感心しています。(笑)

とてもガイガーカウンターとは思えない可愛いデザイン
左:本体 右:シリコンジャケット
そして翌日には商品が到着いたしました。さすがアスマルは早いですねー。
初めてガイガーカウンタなるものを買ったのですが、よくチェルノブイリ原発レポート番組などで見るいかにも計測器というものではなく、まるでたまごっち。(古w)
見た目も手触りもいいですね。写真の左側が本体で、右側にあるが本体保護用シリコンジャケット。
このシリコンジャケットが私には???なんですよね。まあ、後で説明します。

取説を見るのもそこそこに、さっそく測ってみました。

「ほう、ほう」

「ふむ、ふむ」

「ん?」



「???」




「えええーっ」



「あらら」


「・・・」




「イラネ」


以上、時系列で感想を述べてみました。

結論から言うと、他の機種と比べたことはないのですが、まず計測後の数値自体は信頼できるものだと思います。
外箱にきっちりと「校正済み」のシールも貼られておりましたし、まあ日本製ですし。
個人的に残念だと思った点は以下のとおりです。


「これ使いづらいですよw」と言っているような取説の内容
・計測時間が5分ぐらいかかり長い。
しかも、取説によると計測完了するまでの間の計測値は信憑性がない数値らしいです。・取説によると計測中は移動してはいけないとのことです。
しかも、測定箇所より1mの離し、さらに本体を水平にしていなければならないそうです。

・付属のシリコンジャケットを必ず装着しなければならなく、装着していないと衝撃による誤動作が起こるらしいです。せっかくのデザインが台無し。

・うっかりボタンに触れてしまうと、計測がリスタートされ、また5分ぐらい待たなければなりません。

そして、極めつけが・・・
カメラのフラッシュに反応し、どんどん数値が上がるエアカウンターw
写真には写っていませんが、フラッシュの光に合わせて
「ガンマ線検出表示アイコン」が点灯します
写真を撮っていて気づいたのですが、なんとフラッシュの光に反応し、フラッシュをすればするほど、数値がどんどん高くなります。
写真のとおり1.86マイクロシーベルトまで上げてみましたが、もうそれ以上はバカバカしくて止めました。
もちろん、私の家の中は1.86マイクロシーベルトもありません。
「なんじゃこりゃ・・・」って感じです。

フラッシュの光に反応することが仕方のないことかどうかは、ガイガーカウンターに詳しくないのでわかりませんが、つまり、放射能以外の日常存在するものにも反応するということになります。

というわけで、「イラネ」って感じです。
まあ、安かろう、悪かろうなんですね。
ヤフオクで転売屋さんから25,000円で落札していた人がいました。
個人の自由ですが、お金は大切に。

2011年10月14日金曜日

ベビースモーカー禁煙成功の軌跡

TASPOではなく運転免許証でも買える自販機

最近は本当に愛煙家には辛く悲しいご時世であります。
どんどん値上げされる煙草。禁煙地域で喫煙すると罰金。公共施設内や乗物内での全面禁煙。喫煙所の削減と狭小化。自販機ではTASPOが無ければ買えないなどなど。
5,6年前にはここまで酷くなるとは思わなかった。

かくして私もかつては愛煙家で、2004年に奇跡の禁煙を成し遂げ、今年で7年目を迎え、すっかり嫌煙家であります。(笑)

「煙草で一服」という言葉があったとおり、喫煙家にとっては煙草はリラクゼーションアイテムです。
だから喫煙している人に禁煙を薦めたりしません。
でも、禁煙したいけどできないという方は、これから紹介する私の禁煙までの軌跡を、禁煙術の一例として参考にするのもいいかもしれません。

なぜなら私の禁煙は家族や周囲の知人友人から「奇跡」と呼ばれたほどの禁煙だったからです。
特に好きだった葉巻「コイーバ SIGLO」

私の喫煙暦は長く、しかも吸い始めたころからヘビースモーカーでした。
禁煙に成功する頃には、1日だいたい80本、徹夜のときは1日100~120本。休暇のときは普通の煙草以外に葉巻を1日数本といった状態で、起きている時は10分ぐらいで1本吸うようなペースでした。
もちろん止めるつもりはありませんでしたし、葉巻が大好きな愛煙家でした。

ところがある日、朝起きると黒い痰が出る日が何日も続きました。
以前にも何回か黒い痰がでたことがあったのですが、何日も続くのは初めてで、「これは、もしかして肺ガンかも」と思ったのが始まりでした。

その瞬間、少し前に肝臓を悪くして入院したときに相部屋になった、肺病の根本さんというオジサンを思い出しました。
根本は自分で呼吸すらできなく、気管に穴を開けられ、そこに太いチューブが刺さっており、それで呼吸をしていました。
昼夜を問わず頻繁に管から痰を取ってもらい、食事も流動系で、楽しみはテレビだけとボヤいてました。
根本さんが煙草でそうなったかどうかは知りませんが、ああなる前に急がねばと思った私は、すぐに近くの病院で肺ガン検診を受けました。
結果が出るまでは気が気ではありませんでしたが、結果は「異常なし」でした。
ホッとすると同時に、禁煙への意欲が急激に高まりました。

まず始めに私がしたことは、買い置きしてあった煙草2カートンを箱から出し、24個の煙草を、封を開けずに蓋の付いていない小さなゴミ箱に捨てました。
一つずつではなく、一気に捨てような感じです。
するとなんだか不思議な感覚がしたのを今でも憶えています。
なんかまるで、あれだけ好きだった煙草が、前から好きでなかったように思え、次の瞬間ゴミにしか見えなかったのです。

そしてしばらくすると、肺がムズムズするような誘惑がやってきます。
禁断症状なんて病気のように言う人もいますが、私は違うと思います。
こういう言い方をすると怒られるかもしれませんが、あれはオシャブリを取り上げられた赤ちゃんが泣くのと同じ現象だと思います。
ある程度の中毒性はあるかもしれませんが、吸わなければ体調に支障をきたすようなものではありません。
そのムズムズとどう戦うかが勝負どころです。
禁煙を失敗する多くの方はここで挫折するのでしょう。

でも、既に一つのお守りを持っているのです。
それは、大量の煙草を捨てたときの不思議な感覚です。
煙草がゴミにしか見えなかった、あの感覚です。
ゴミ箱は数日の間、そのままの状態にしておきました。
そしてムズムズしたらゴミ箱をじっと見つめ、あの感覚を思い出す。
外出中はゴミ箱を脳裏に焼きつけ、それを思い出す。
今の時代なら携帯で写真を撮っておきそれを見るのもよいでしょう。

それを数日していると、ほんの少しだけ、人の吸っている煙草の匂いが気持ち悪くなる瞬間が訪れます。
いよいよここからが仕上げです。
信じられないぐらいクソまずい煙草を探し出し、それを買ってきて、ほのかに起こるムズムズの時に吸うのです。
クソまずい煙草をゆっくりと味わうことで、煙草がどんどん嫌いになっていきます。
そしてもう吸いたくも無いと思ったら、そこがほぼゴールです。
あとは、人から薦められても、吸っている人を見ても、「この人、あの人たちは野蛮人だ!」(本当は違いますよw)と思えば大丈夫です。

私はこの方法で、禁煙し始めてから1ヶ月弱で禁煙に成功しました。
ヘビースモーカーだった私が、自分でも本当に感心します。奇跡としか思えません。

現在の禁煙ブームを考えると、本当に良かったと思います。
胸ポケットにいつも煙草を入れていた私は、当時胸ポケットが無い服を買うなんて信じられないと本気で思っていましたが、今は煙草とライターという装備品が減った身軽さに喜びを感じています。
煙草を吸っていない時間を、どう過ごせばいいのだろうと恐怖心さえありましたが、今ではそんな時間あったのかというぐらいにしか感じていません。
むしろ煙草を吸っていた時間が無駄で無駄でもったいなく思います。
今ではもう二度と吸いたくもないです。
「百害あって一利なし」とは言い過ぎかもしれませんが、私は心の底から本当に思います。

2011年10月13日木曜日

趣味とロードバイク

少し堅い話が続いたので、ここらで柔らかい趣味の話を。

私はすごい多趣味です。
いわゆる広く浅くの多趣味です。
何にでも興味を持ち、すぐに何でもやってみたくなる。
そして飽きたら終わり・・・正直言って悪い癖、いや下世話です。(笑)

ある日、妻からこんなことを言われました。
「あなたの趣味は仕事なのよ」
一瞬「は?」と思いましたが、よくよく考えてみると私の趣味の発生源は絶対に仕事なんです。
と言っても、仕事の業種が広告だったので趣味の対象が延々と広がるんですね。
つまり広告の企画や演出を考えるとき、参考となる物事は何でもいいわけで、「これは仕事につながるかも・・・」と少しでも思えばすぐに趣味にしてしまいます。

妻の放った一言に、驚き、感動し、長年のわだかまりが一気に晴れました。(笑)
なにか救われたような気がしました。ちょっとした劣等感さえありましたから。

というわけで、現在進行形の趣味は「自転車」、「登山」、「カメラ」、「読書」、「見本市展示会に行くこと」、「子育て?」、「このブログ?(笑)」などなど。他にも冬季限定で「スキー」などいろいろありますがキリがないので。
とりわけ「自転車」はかなりハマってます。
まだ初めて2年間ぐらいしか経っていないんですが、先日買い替えで2台目を購入しました。
私の乗っている自転車はロードバイクというタイプで、これがメチャクチャ楽しいんです。
なぜ、自転車が仕事なの?と思うかもしれませんが、それに関しては追々折に触れてログります。
愛車はスペシャライズド Roubaix (ルーベ) SL3 Expertです

北海道で自転車に乗れることが今からすごく楽しみです。
ロードバイクに乗っている方で、市民レースなどに参加されている方は結構おりますが、私はレースに出ない派です。
少し興味はありますが、始めたきっかけが仕事なので興味は別なところにあります。
レースではありませんが、来年から「ブルベ」という競技には参加したいと思っております。
知っている方も多いとは思いますが、このブルベを少し説明すると、ブルベは走行タイム等を競うイベントではなく、夜間走行を含め様々な天候のもと200km超の距離を自己責任で走る長距離サイクリングです。
詳しくはこちらで紹介されております。
>オダックスジャパン http://www.audax-japan.org/
>オダックスジャパン北海道 http://aj-hokkaido.sakura.ne.jp/index.html

かなり辛いサイクリングですが、競う相手が自分自身というところに魅力を感じます。
普段は100kmぐらい走るのは平気な私ですが、300km、400km、600kmは未知の世界です。
途中のトラブルに備え自転車に関する機材や安全走行に関する知識も必要です。
そしていつかは、4年に一度、フランスで開催されるブルベ最高峰のイベントで、パリとブレスト間の往復1,200キロを走破する「パリ・ブレスト・パリ」に参加してみたいと思います。一応レースイベントなんですけど完走目標で十分です。なんてったって世界最古のサイクリングイベントですからロングライド好きにはたまりません。

サイクルコンピューターはガーミンのエッジ500です(英語版ですけど)
私の乗っている自転車はロングライドに適した自転車で、スペシャライズドのRoubaix (ルーベ) SL3 Expertです。
以前は同じくスペシャライズドのALLEZ (アレー)というコンペティティブロードのシリーズに乗っておりましたが、ロングライドが好きなのでエンデュランスロードのシリーズに変更したわけです。
ロングライド向けと言っても、そこそこ剛性があり踏めば反応はいいし、40km/h前後での巡航も非常に快適です。(貧脚がエラそうに言ってすみません・・・)

あんまり楽しそうな私を見てか、妻も今年からロードバイクに乗り始めました。
妻の自転車はトレックのMadone (マドン) 3.1です・・・
知っている人からすると「ハァ?!」って思う方もいらっしゃるかと思いますが、いきなりフルカーボンフレーム。コンポはシマノ105。シューズもビンディングでソールはカーボン。ウェアはカステリ。エンジン(脚力)は50cc並みです。(笑)
私も人のことをいえないとは思いますが、素人の女性は怖いです。
先日も自転車屋で、初心者を名乗る若い女性が、「フルカーボンのコルナゴがいいかなぁ。24回払いで。」なんて仰っておりました。
でもまぁ、妻にそれを勧めたのは、実は私なんです。
エントリーモデルを買って、すぐに買い換えたくなるよりは丁度いいレベルではないかと思います。
自転車はスキーの板と一緒で、エントリーモデルの品質があまりよくないけど、上級モデルに近づくにつれて劇的に品質が良くなり、上達も早くなるモノだと思います。
大事に乗っていればヤフオクなどでのリセールもかなりいいですし。

機材の話をすると長くなるので今回はこの辺にしておきます。
ちなみに先日、荒川のサイクリングロードへ妻と走りに行きましたが、好きに走っていいよというと35km/hぐらいで巡航していました。ちょっと追い風でしたけどね。(笑)

北海道に移住後は雪が溶けるまで乗れないと思いますが、家族でガンガンと走りまくりたいと思います。

2011年10月12日水曜日

移住の決意 3/3

登録から数ヶ月して、正直すっかり忘れたころに「ジョブジョブとかち」の担当者さんから連絡が来ました。
すっかり忘れていた私なんかのために、一生懸命探してくれていたんだと思うと、本当に申し訳なく思い、感謝してもしきれないものがありました。
お話はマッチする転職先の紹介でしたが、採用時期が急だったため、残念ながら当時会社員として働いていた私には無理なお話でした。
断腸の思いでお断りした、数日後あらためて連絡が来ました。
今度は、前回ご紹介いただいた転職先の社長が東京で私に会ってみたいというお話でした。

正直、驚きました。というよりは不思議でした。
なぜ、私なんかに会ってくださるのだろう?
私みたいな若造に会って何を話したいのだろう?
そんな疑問がありましたが、ともかく十勝で活躍されている方が私なんかに会ってくれる、そう思うと嬉しくてたまりませんでした。

そして、2010年9月2日木曜日16:00。
東京池袋にあるプリンスホテルのロビーで、まるで憧れの女性とのデートのような気分でお会いしました。(笑)
数時間も出張中の貴重なお時間をいただき、様々なお話をさせていただきました。
本当に素敵な方で、まるで初めてお会いしたとは思えないぐらい、なんでも正直にお話をさせていただきました。
会話の詳細は公開を避けさせていただきます。
今でも鮮明に憶えているのでログを残す必要もありません。(笑)
結果的に、責任は重大ですが願ってもないオファーをいただきました。
運命的な出会いを感じた私は、家内と相談後、後日いただいたオファーを拝領させていただきました。
東京で最後となる住まいからの景色 2011年元旦の早朝

こうしてようやく十勝での転職先が決定し、転居時期を決めるだけとなりましたが、出産時に子供が呼吸系の病を患い、その経過観察の必要があったこと、3月11日の東北地方太平洋沖地震により家内の仕事のスケジュールに大幅な支障が出てしまったことなどの理由で、最初にお会いしてから延びに延びて、社長と初めてお会いしてから1年半後の2012年1月に移転することになりました。私の勝手な都合で、社長には本当にご迷惑をおかけしました。

今度こそ晴々とした気分で移住することができそうです。
家族全員、なんの迷いもありません。
そして、5年前に決意したことに、一点の曇りもありません。

移住まで、いよいよあと3ヶ月!
大移動だけに移住だけでも何かと大変そうです。

2011年10月11日火曜日

移住の決意 2/3

「十勝や十勝の人のために働き、そしていつか役に立てるようになりたい」
それが私たちの決めた40歳からの生き方でした。
それは同時に、ほぼゼロからのスタートを意味します。

当時、子供はいなかったものの妻という家族がおりました。
十勝に戻るといっても、食べていける仕事が無ければ戻るに戻れません。
そこで、永田町にある北海道東京事務所や、新橋にある帯広市東京事務所などを訪問し相談をしてみたものの、いいお話などあるわけもなく、ハローワークなどの窓口で探すしか方法はなさそうでした。
「まあ、職を選ばなければ何とかなるだろう」と思い、移転の準備を進め、東京での事業を北海道に居ても継続できるように縮小。従業員の転職先も決まり、引越しまで1週間となった2005年のある日のことです。
朝、目が覚めるなりベッドの中で、妻に「1週間後には北海道に引越しだが、何か釈然としない感じがするのは俺だけか?」というという問いに妻は、「実は私もそう思ってた」と言い、その短い会話だけで移転を取りやめました。(笑)
住んでいたマンションも既に解約手続きをしていたので、その日に慌てて近所の不意動産屋に駆け込み、近所で引越し先の住居を決めました。
その節は、十勝での転居先、引越し屋さん、取引先など沢山の方にご迷惑をおかけしました。
経営していた会社の事務所 (中央区新富町)

釈然としなかった理由・・・
それはバタバタと移転を決定し、東京での仕事も中途半端、十勝での仕事も中途半端という中途半づくしが原因でした。
そして、まずは東京に居ながらにしても何かできることはないか。もう少し情報収集してからでもいいのではないか。そしてできれば何か活動を始めてから戻ったほうがよりよいスタートができるのではないかと思い、その方向で準備を進めることにしました。
まずは、北海道に戻る前提で事業を縮小してしまったので、残っていた仕事を一人で3年かけて収束し、2008年には会社員として就職しました。
ところがその就職した会社での仕事が面白く、昼夜を問わず働いていたため、かなかな十勝に係わる活動ができずに焦っておりました。
何もできないよりはと、帰省した際に帯広地域雇用創出促進協議会が運営する「ジョブジョブとかち」への登録をおこないました。
通常のハローワークでの求人では、なかなか私の経歴とマッチする職が無く、「ジョブジョブとかち」であれば何か相談に乗ってもらえそうというのがきっかけでした。
そしてこの「ジョブジョブとかち」の担当者さんとの出会いが、運命的な出会いでした。
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